ユータロー日々の記録

韓国の大学に正規入学中のユータロ―です!韓国情報、コーヒー、ヒーリングに関して主に書いています!

体の祈祷は運動であり、心の運動は祈祷である

ちょうど2年前にブログに載せた内容をそのまま載せてみます。

 

自分が書いた内容でも、

 

少し今とはやはり違う考えを持っているなと思います。

 

 

以下はコピペしてます。

 

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ある人の言葉。

 

 

 

 


人間の構造を見ると、宗教云々にかかわらず心と体に大きく別れるだろう。

 

 

 

 

 


肉的なものは体であり、霊的なものは心に該当する。

 

 

 


キリスト教の人はよく祈祷するといい、
仏教の人は瞑想すると言う。

 

 

 

 


エスキリストがそうであったように、祈祷をする事で神につながることを人類に見せて来た。

 

 

 

 


ブッタは瞑想という分野によって心を鍛え、解脱の涅槃が必要といった。

 

 

 

 

 


これはあくまで心の問題だ。

 

 

 

 

 


人間誰しも、心だけでは行きていけない。

 

 

 


どれだけ心が素晴らしい人でも体が弱々しく、行動できなければ信用されないだろう。

 

 

 


エスキリストもどんな絵を見ても、筋肉が素晴らしい。

 

 

 


でも今のキリスト教では運動を教えているところはあまりないだろう。

 

 

 

 


あまりにも偏りすぎている。

 

 

 

 


日本で主流の仏教はといえ、運動については語られない。
心の瞑想を通して、そこからどう変わっていくかだ。

 

 

 


そこでやはり、体を鍛えることによって瞑想を行う必要がある。

 

 

 


瞑想といっても方法は多いが、どちらにしろ体力が必要である。

 

 

 

 


だだ座っているのも精神だけでは勝てない部分もある。

 

 

 


もちろん、体を鍛えることは精神を鍛えることにもつながる。

 

 

 


だからこそ体における運動こそ祈祷となるのである。

 

 

 

 


そもそも瞑想というと宗教臭いイメージだが、


それこそは大きな間違いだ。

 

 

 

 


瞑想は座ってやるもんじゃない。生活が瞑想となり、祈祷となるのだ。

 

 

 

 


心と体が構造上ある以上はその説明書を読まなければならない。

 

 

 

 


右手と左手があるのに片手しか使わないのはバカだろう。

 

 

 

 


瞑想ばかりしても意味がない。

 

 

 

 


悟りにも限界が来るだろう。

 

 

 

 


瞑想(祈祷でも)と生活が一つになった時、新しい悟りを得られる。

 

 

 

 


目の前の植物を通しても瞑想し、私の場合はコーヒーと瞑想をする。

 

 

 

 


コーヒーを通して瞑想によってハンドドリップをする。

 

 

 

 


そうするとコーヒーと私のもともとは別々のものが、一つとなって新しいものが誕生する。

 

 

 

 


そういうものをやることがこれからの人類の行くべき未来ではないだろうか。

 

 

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